トップページ > 二十四孝彫刻

カバー画像大杉神社夢むすび

瑞垣の二十四孝彫刻

社殿周辺にめぐらされた欄間彫刻は、瑞垣と呼ばれる透塀です。これらのほとんどは、かつての正徳社殿からの転用材で、度重なる火災での焼失を免れたほんの一部分。正徳5年に完成し、享保13年に焼失した正徳社殿は、現在の社殿よりかなり大規模で、しかも現社殿を装飾する彫刻の量をはるかに凌駕する社殿でした。大工棟梁は櫻井瀬左衛門、彫刻棟梁は嶋村圓鐵が担当。また、この豪奢な彫刻が施された社殿は「あんば日光」の異名をもち、「あんば(大杉神社の異称)を参れば、日光見ることなし」と言われるほど、絢爛豪華でした。  

この瑞垣(ずいがき)にはめ込まれた孝行説話を主題とした彫刻は、「二十四孝彫刻」(にじゅうしこうちょうこく)の名で知られており、二十六篇三十面の彫刻がはめ込まれています。二十四孝物語の二十四篇には二つの説があり、共通する二十二篇に「張孝張禮」と「田眞田廣田慶」で二十四篇とする説と、「紅革」「仲由」を加えて二十四篇とする説、どちらもよく知られています。つまり物語は全部で二十六篇になるため、瑞垣には二十六篇の彫刻があるのです。

※ 二十四孝とは古く中国で親孝行であった二十四人の話で、中国の元の時代に郭居敬によってまとめられました。日本にも伝わり、江戸時代には寺子屋での道徳教育にも使われ、広く庶民に親しまれてました。

朱壽昌

朱壽昌(しゅじゅしょう)

七歳生離母 参商五十年

しちさいにして りぼしょうず さんしょう ごじゅうねん

一朝相見面 喜気動皇天

いっちょう おもてをあいみる きけ こうてんを うごかす

朱壽昌は七歳のときに母と離れ離れになってしまいました。努力家の朱壽昌は役人になり地位を得ることができましたが、母にひと目だけでも会いたいという気持ちは片時も頭から離れず、ついに行き別れてから五十年が経ってしまいました。
母にいつか会いたいという思いは日ごとに強まり、朱壽昌は自らの血で経を写し書き、役人の職を捨て、天に祈りました。すると秦という場所に母の居ることがわかり、ついに母に再会することが叶ったということです。これは朱壽昌の志が真っすぐで、揺らぐことがなく、母への想いが深かったことによります。

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董永

董永(とうえい)

葬父貸方兄 天姫陌上迎 

ちちをそうするに ほうひんをかる てんき はくしゅうにむかう

織絹償債主 孝感盡知名

きぬをおって さいしゅにつぐなう こうかん ことごとくなをしる

董永は幼いときに母と別れ、家は貧しく、子どもながら働かなければならない厳しい日々を送っていました。父は足が悪いため、小さな車に父を乗せ田の付近まで連れて行き、農作業に励みました。やがて父も亡くなり、葬儀を営むお金がなかった董永は、自分の身を売りお金を作ることにしました。葬儀を無事に済ませ身請け人の所へ行こうとする途上、一人の美女が現れました。「私は董永さまの妻になるために、絹を織って身請け人に届けました。ですからあなたは自由の身です」と言い、やがて美女は董永の妻になりました。時が流れたある日、「私は天の織姫でした。あなたの孝行な心に感心した天が、私をあなたのもとへ遣わせたのです」と美女は告げ、天に帰っていったそうです。

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郭巨

郭巨(かっきょ)

貧乏思供給 埋児願母存

びんぼう ぐきょうをおもう ちごをうずんで ぼぞんをねがう

黄金天所賜 光彩照寒門

おうごん てんよりたまうところ こうさい かんもんをてらす

郭巨の家は貧しく、母と妻、三歳になる子どもがいました。郭巨の母は孫をかわいがり、自分の少ない食事を孫に分け与えていました。ある日郭巨は妻に言いました。「母の食事さえ充分ではないほど我が家は貧しい。私たち夫婦は、また子を授かることはできるが、母を授かることは二度とない。だからこの子を埋めるしかないんだよ」と。妻は悲嘆にくれましたが、夫の命に従うしかありませんでした。やがて郭巨が涙ながらに地面を掘り始めました。すると、土中に黄金の釜があり、釜には「孝行な郭巨に天がこの釜を与える」という内容の文字が刻まれていました。郭巨は、黄金の釜を子どもと一緒に持ち帰り、いっそう母に孝行をつくしたということです。

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王裒

王裒(おうほう)

慈母怕聞雷 永魂宿夜臺

じぼ らいきをきくをおそれる ひょうこん やだいにしゅくす

阿香時一震 到墓巡千廻

あいきょう ときにいっしん はかにいったて めぐることせんかい

王裒には王義という父がいましたが、皇帝の怒りを買ってしまい、無実のうちに牢獄で亡くなってしまいました。王裒はこのことを恨み、決して皇帝のいる方角に向かって座ることはありませんでした。この思いは、亡き父の墓前で王裒が泣くため傍らの柏の木が枯れてしまうほど、強かったということです。 また、王裒は母のことも大切にしていました。とても臆病な人だったので、王裒は、出かけていても雷が鳴り始めると母のもとへ帰り安心させていました。母の死後も、雷がなると母の墓に急いで駆けつけ、母に怖い思いをさせないよう祈ったそうです。

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楊香

楊香(ようきょう)

深山逢白額 努力摶腥風

しんざん はくがくにあう つとめて せいふうをてうちにす

父子倶無恙 脱身饞口中

ふしともに つつがなからん みをまぬかるる ざんこうのうち

あるとき楊香が父と山に出かけていたところ、林の中から1匹の大きな虎がでてきました。楊香親子は懸命に虎を追い払おうとしましたが、怒り狂った虎は二人に向って襲いかかってきました。その時楊香は、「どうか私だけを食べて、父を助けてください」と無我夢中で天に祈りました。すると、間一髪のところで突然虎が静かになり、襲いかかるのをやめおとなしく林の中へ帰っていきました。
この話は村中で話題になりましたが、みな口々に「普段から父を大切にし良く働いている楊香の行いを、天がちゃんと見ていてくださったのだろう」と言ったといいます。

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黄香

黄香(こうきょう)

冬月温衾煖 夏天扇枕涼

とうげつには ふすまをあたためあたたかにす かんてんには まくらをあおいでふす

児童知子職 千古一黄香

じどう ししよくをしり せんこ いちおうきょう

黄香は安陵というところに住んでいました。わずか9歳で母を亡くし、父と二人で暮らしていました。毎日亡き母を慕い、近所でも評判の孝行息子でした。黄香は父も大切にし、自分にできる限りの孝行をつくしました。夏の暑いときには枕や椅子をうちわで扇いで冷やし、冬の寒いときには先に自分が父の布団に入り、自分の体で温めておきました。
黄香の孝行話は人々からお役所にまで知れ渡り、安陵の劉讙という太守(長官)の耳にも入りました。その話に心を打たれた劉讙は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えたということです。

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大舜

大舜(たいしゅん)

隊隊耕春象 紛紛耘草禽

たいたいとして ぞうはるにたがやす ふんふんとすて とりくさをくさぎる

嗣堯登寶位 孝感動天心

ぎょうについで ほういにのぼる こうかん てんしんをうごかす

大舜の父は瞽叟という人で、ひどく頑固な人でした。また、母はひねくれ者で、弟はとても奢り昂ぶった人でした。しかし大舜はひたすら孝行をつくす息子だったといいます。
大舜は田を作る仕事を一生懸命行っていました。弟は耕作を手伝ってくれませんでしたが、大舜が不満を漏らすことはありませんでした。あるとき大舜が田を耕しに行くと、象が田を耕し、鳥が田の草をとっていました。大舜の孝行を感じた天が、動物たちを差し向けたのでしょう。時の皇帝、堯は大舜の孝行な心に感銘を受け、自分の娘を大舜に嫁がせました。後には皇帝の座も大舜に譲ったということです。

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漢文帝

漢文帝(かんのぶんてい)

仁孝臨天下 蘶蘶冠百王

じんこう てんかにのぞむ ぎぎとして はくおうにかんたり

漢廷事賢母 湯薬必親嘗

かんてい けんぼにつかう とうやく かならずみずからなむ

漢文帝は漢の高祖の子で、名前は恒といい、兄弟がたくさんいました。恒は幼いころから孝行な子どもで、恒の孝行ぶりをよく知る陳平、周勃などの家臣は、恒を皇帝に推薦しました。恒は武力に拠らずに皇帝の座につき、漢文帝と呼ばれるようになりました。
漢文帝は皇帝になってからも母の薄太后にたいへん孝行をつくし、皇帝の身でありながら食事の際には自ら毒見をするほどでした。孝行とは誰でもが知っていることではありますが、実際に行うことはなかなか難しいものです。孝行をつくす漢文帝の世は豊かで民衆も住みやすかったというのは、まことに納得させられることであります。

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丁蘭

丁蘭(ていらん)

刻木為父母 形容在日新

きをきざんで ぶもとす けいよう ざいちにあらたなり

寄言諸子姪 聞早孝其親

ことばをよす しょしてつ はやくきいて そのおやにこうす

あるところに丁蘭という者がいました。母を亡くし深い悲しみに包まれた丁蘭は、母に孝行ができないことを嘆いていました。そこで丁蘭は、母の木像を作り、生きているときと同じ様に孝行をつくすことにしました。
ある夜、丁蘭の妻がこの母の木像の顔を火で焦がしてしまいました。すると木像の顔は腫れ上がり血が流れ落ちてきたのです。さらに二日すると妻の髪の毛がすべて抜け落ちてしまったため、妻は驚いて何度もお詫びをしましたが、事態は一向に改善しませんでした。そこで丁蘭は木像を大通りに移し、妻に三年侘びをさせたところ、一晩のうちに木像が元通りになり、家に戻っていたということです。

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孟宗

孟宗(もうそう)

泪滴朔風寒 蕭蕭竹敷竿

なんだしただって さくふうさむし しょうしょうたる たけすがん

須臾春笋出 天意報平安

しゅゆ しゅんしゅんにいず てんい へいあんにほうず

孟宗は幼いときに父を亡くし、年老いた母を養っていました。やがて母が病気になり、味覚が変わってしまった母は、あれこれと違う食べ物を欲しがりました。
ある冬の日、母に筍が食べたいといわれた孟宗は、あろうはずもない筍をもとめて竹林に向かいました。雪をかきわけ掘れども掘れども一向に筍は姿を現しません。途方にくれ、涙を流しながら一本の竹に寄りかかると、突然大地が裂け、たくさんの筍が姿を現しました。孟宗は大変喜び、掘ってきた筍で筍汁を作りました。母親に食べさせたところ、たちまち病気が治り、天寿を全うすることができたそうです。

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閔子騫

閔子騫(びんしげん)

閔氏有賢郎 何曾怨晩娘

びんし けんろうにあり なんぞかつて はんじょうえんす

尊前留母在 三子免風霜

そんぜんに ははをとどめてあり さんし そうふうをまぬがる

閔子騫は幼いときに母を亡くしました。やがて父が再婚し、閔子騫には二人の兄弟ができました。けれども継母は、自分の二人の子どもだけをかわいがり、閔子騫に愛情を注いではくれませんでした。冬には、下の二人の兄弟に綿入れの着物を着せ、閔子騫には蘆の穂を入れた着物しか着せませんでした。閔子騫が寒さに震えているのを見た父は、妻と離縁しようと考えましたが、閔子騫は「もし離縁をすれば三人の子供が凍えてしまいます。自分が凍えていさえすれば下の二人の兄弟は暖かく過ごせるではないですか」と父を思いとどまらせたといいます。継母はこのことを知り、それからは閔子騫にも温かい愛情を注ぐようになりました。

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曾參

曾參(そうしん)

母指纔方噛 兒心痛不禁

ぼし わずかにまさにかむ じしん いたんできんぜず

負薪帰来晩 骨肉至情深

たきぎをおうて きらいおそし こつにく しじゅうふかし

曾參は幼い時に父を亡くし、母と二人で暮らしていました。薪を売り生計を立てていた曾參が、いつものように山で薪を採っていると、胸騒ぎがしました。急いで留守番をしていた母のもとに帰ってみると、曾參の親友が家を訪ねてきていたのでした。母は、曾參が留守をしていて、家が貧しいためもてなすこともできず、曾參の帰宅をただただ願って指を噛んだという事の経緯を詳しく曾參に伝えました。
孝行の心がある者には、母の願いはいかに遠くにいようとも伝わるものであり、親子の情の深さは奇跡さえ起こすものであるということです。

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朱壽昌

王祥(おうしょう)

継母人間有 王祥天下無

けいぼ にんげんあり おうしょう てんかになし

至今河水上 一片臥氷摸

いまにいたって かすいのうえ いっぺん ひょうもにふす

王祥は幼いときに母を亡くしました。父が再婚した後は継母からひどい扱いを受けていましたが、王祥は恨むことなく、継母に孝行をつくしておりました。
実母が健在であったときのことです。冬の極寒の日に魚が食べたいという母のために川に出かけましたが、川は氷に覆われていてとても魚など獲れるような状況ではありませんでした。悲しみに暮れる王祥は、衣服を脱ぎ捨てて氷の上に腹ばいになりました。やがて氷が少しだけ解け、魚が二匹躍り出てきました。喜んだ王祥は家に魚を持ち帰り、さっそく調理をして母に食べさせたということです。その後毎年、その場所には人が伏した形の氷が出現するようになったそうです。

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老莱子

老莱子(ろうらいし)

戯舞學嬌癡 春風動綵衣

けぶ きょうちをまなぶ しゅんぷうさいいをうごかす

双親開口笑 喜色満庭闈

そうしん くちをひらいてわらう きしょく ていいにみつ

老莱子は両親によく孝行をした人でした。七十歳になった老莱子は、派手な着物を着て、子供のように遊んだり、両親に食事を運ぶときにもわざとつまずいて転んで泣いたりしてみせていました。
老莱子は、両親が息子の七十歳の老人になった姿を見て嘆き悲しむのではないか、と思いました。そこで、わざと子どものようにふるまって、両親に年齢を感じさせないようにしようとしたのだそうです。また、息子が年老いたなら、自分たちはもっと年老いていると両親に思わせないようにという孝行の心がさせたことでもありました。

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姜詩

姜詩(きょうし)

舎側甘泉出 一朝双鯉魚

そくしゃに かんせんいず いっちょう そうりぎょ

子能知事母 婦更孝於姑

こよく ははにつかうることをしる ふさらに こにこうあり

姜詩はとても母に孝行な人でした。母はいつでもきれいな川の水を飲み、鮮度のいい魚で作った食事を願っていました。姜詩の妻も、姜詩のように孝行を良くする人でした。夫婦は、きれいな川の水とおいしい魚を手に入れ、母の望みを叶えるため、毎日のように長い道のりを歩き続けました。
ある日のこと、姜詩の家のすぐ傍に清らかな水が湧き出ました。瞬く間にその泉から湧き出た水が川を作ったのです。そして毎朝川をのぞきこむと、決まって鯉がいました。夫婦はこの川の水を汲み、この川で獲れた魚で食事を作るようになりました。これは、夫婦の孝行心が天に届いたためだと言われています。

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唐婦人

唐婦人(とうのふじん)

孝敬崔家婦 乳姑晨盥梳

こうけい さいかのぶ にゅうこ あしたにかんしょす

此恩無以報 願得子孫如

このおん もってほうずることなし ねがわくば しそんかくのごとくするをえん

唐婦人は姑にあたる長孫夫人に大変孝行をつくした人でした。長孫夫人は年老いて歯がないため、唐婦人はいつも自らの乳を食事の代わりに出していました。また、毎朝姑の髪を串で整えるなど、さまざまな孝行をつくしていました。
ある日、自らの命がもう長くはないと悟った長孫婦人は、一族を集め「我が家の唐婦人からは数々の恩を受けました。けれどもその恩に報いずに死ぬことが心残りです。せめて私の子孫であるあなたがたは、唐婦人の行いを真似て過ごしてもらいたい。そうすれば必ず繁栄がもたらされるでしょう」と伝えました。
唐婦人の一族はその後栄え、こんなに姑に孝行な人はめったにいないと評判になったといいます。

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陸績

陸績(りくせき)

孝悌皆天性 人間六歳児

こうてい みなてんせい にんげん ろくさいにじ

袖中懐緑橘 遺母報含飴

しゅうちゅうに りょくきつをかいして ははにおくって がんいをほうず

陸績が六歳のときに、袁術という人のところにでかけたときのことです。袁術は陸績のために蜜柑を用意しておきました。陸績はその蜜柑を三つ袂に入れ、持ち帰ろうとしたところ、袖の袂から蜜柑がこぼれ落ちてしまいました。袁術はこれを見て「泥棒のようなことをしますね。幼い人には似つかわしくないことですよ」というと、陸績は「あまりに見事な蜜柑でありましたので、母の恩に報いるため家に持ち帰り、母に食べさせたいと思いました」といいました。
これを聞いた袁術は、「幼いのに何という孝行な子供でしょうか。他の人にはなかなかまねのできない心掛けですね」と褒め讃えたということです。

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田眞 田廣 田慶

田眞 田廣 田慶
(でんしん でんこう でんけい)

海底紫珊瑚 群芳總不如

かいていの しさんご ぐんほう すべてしかず

春風花満樹 兄弟複同居

しゅんぷう かまんじゅ きょうてい またどうきょ

田眞、田廣、田慶という三人の兄弟がいました。親が亡くなり兄弟は財産を三等分することになりました。家の庭には、紫荊樹という葉が豊富に繁り花の咲き乱れる見事な樹が一本ありました。三人はこの木も三等分しようと徹夜で話し合いました。やがて夜が明け、木を切ろうと三人が庭にでてみると、昨日まで勢いよく繁っていた紫荊樹はすっかり元気をなくし枯れ始めていました。「草木にも心があり、切られてしまうという自らの運命を悟って枯れたのではないだろうか。人として、なんと至らないことをしようとしたのだろう」と反省し、木を切らずに置くことにしました。すると紫荊樹はもとのように栄え繁ったのだそうです。

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剡子

剡子(ぜんし)

老親思鹿乳 身掛褐毛衣

ろうしん ろくにゅうをおもい みにかつもうの ころもをかける

若不声高語 山中帯箭皈

もし こうじょうにかたらずんば さんちゅうに やをおびてかえらん

剡子は、両親のためなら命をかけることができるほどの孝行者でした。両親は眼を患っており、ある時剡子は、鹿の乳が眼の薬になるということを聞きつけました。
剡子は鹿の乳を手に入れるため、鹿皮を身にまとい、鹿の群れに入って行きました。そこに猟師が現われ、剡子を本物の鹿だと思い矢を射ようとしていました。剡子は「私は本物の鹿ではありません。親の願いを叶えるためにこのようなことをしているのです」というと、猟師は驚いて射る手を止めたのでした。ひょっとすると剡子は矢で射られてしまっていたかもしれませんが、孝行の志が高かったので命を落とさず無事に両親のもとへ帰ることができました。そしてその後も、親孝行を続けたということです。

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蔡順

蔡順(さいじゅん)

黒椹奉親闈 啼飢涙満衣

こくじん しんいにほうず うえにないて なんだころもにみつ

赤眉知孝順 牛米贈君帰

しゃくび こうじゅんをしって ごべいを きみにおくってかえらしむ

蔡順は天下が乱れ、飢饉の頻発する時代に生まれました。食べる物が極端に不足していたので、蔡順は母のために桑の実を採りにいきました。採った桑の実を、熟している実とそうでない実とに分けていると、これを見ていた盗賊が「何故に実を分けているのか」と訊ねてきました。蔡順は、「私には母がおりまして、熟したものは母に食べさせ、熟していないものは私が食べるために分けています」と答えました。さすがの盗賊も蔡順を襲うことはできず、米と牛の足を残し去っていってしまいました。
蔡順は、盗賊が残してくれた米と牛の足を母に食べさせました。不思議なことに、この米と牛の足は一生の間尽きることがなかったといいます。

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臾黔婁

臾黔婁(ゆきんろう)

到縣未旬日 椿庭遘疾深

けんにいたって いまだじゅんじつせざるに ちんてい やまふかきにあう

願将身代死 北望啓憂心

ねがわくは みをもってしにかわり ほくもう ゆうしんをひらく

臾黔婁は南斉という国の人です。ある時、孱陵県の役人に抜擢され赴任しましたが、仕事を始めて十日も経たないうちに胸騒ぎがしました。臾黔婁は父の身に何かが起こったのかもしれないと思い、役人の仕事を辞め家に帰りました。
家に着いてみると、父が大病に侵されていました。臾黔婁が医師に病状を訊ねると、「病人の便をなめてみて、甘く苦ければ病状はよいであろう」というので、臾黔婁は躊躇することなく父の便をなめました。医師のいう味とはあきらかに違ったため、臾黔婁は父の死が間近に迫っていることを感じ悲しみました。そして、自分の身に代えても父を助けてほしいと、北斗の星に祈り続けたということです。

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呉猛

呉猛(ごもう)

夏夜無帷帳 蚊多不敢揮

かやに いちょうなし かおおくして あへてふるわず

恣渠膏血飽 免使入親闈

かれがこうけつのあくを ほしいままにし しんいにいれしむことを まぬかる

呉猛はわずか八歳のころから、大変孝のある人だったといいます。呉猛の家はとても貧しく、必要なものもなかなか買うことができませんでした。当然、夏になっても蚊帳のない布団で眠らなければなりません。呉猛は毎晩自分の着物を親に着せ、自らは裸になって眠りにつきました。
どうして自ら進んで蚊の餌食になったのでしょうか。呉猛は「自分が蚊を追い払ってしまっては両親が刺されてしまう。けれども、自分が先に刺されれば、両親が蚊に刺されずに安眠できるだろう」と考えたのです。やがて蚊も孝行な呉猛の心に感心し、呉猛だけを刺すようになったということです。

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張孝 張禮

張孝 張禮(ちょうこう ちょうれい)

偶値緑林児 代烹云痩肥

たまたま りょくりんのこにあい にくにかわって そうひをいう

人皆有兄弟 張氏古今稀

ひとみな きょうていあり ちょうし ここんまれなり

張孝と張禮という兄弟がいました。大飢饉の中八十歳になる母を二人で養っていました。張禮が木の実を拾いに行くと、盗賊が張禮を捕らえて食べようと襲いかかってきました。張禮は、「私の年老いた母が今日はまだ食事を済ませていません。母に食事を運びましたら必ず戻ってまいります」というと、家に戻って母に食事をすすめ、再び盗賊のところに戻りました。このことを知った張孝が進み出て「私のほうが弟より太っております。ですから私を食べて弟は助けてください」と盗賊に告げました。これに対して張禮は「最初の約束は私です」と、両者は一歩も引きません。これには非道な盗賊も孝行な兄弟に心を打たれ、二人の命を助け、たくさんの米と塩を与えました。兄弟はこれを持ち帰り、一層の孝行をつくしたそうです。

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山谷

山谷(さんこく)

貴顕聞天下 平生孝事親

きけん てんかにきこう へいぜい こうにして おやにつかう

汲泉涓溺器 婢妾豈無人

いずみをくんで ねうきをすすぐ ひせん あにひとなからんや 

山谷は宋の時代の詩人で、今日の詩人の祖師と言われるほどの人物です。山谷には妻もあり、使用人もたくさんいましたが、朝から夜まで一日中母に仕え、決して孝行を怠ることはありませんでした。
例えば、自分の母の大小便の便器の汚れを自ら確認し、汚れている場合は素手で洗いました。この便器の逸話一つを聞くだけでも、他にも孝行をつくしていたということを推測することができます。一時が万事とはよく言ったものです。こうした山谷の孝行は天下に知られ、山谷の名も広まったといいます。

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紅革(こうかく)

紅革は幼くして父を亡くし、母と二人で暮らしていました。世の中が乱れ物騒に思った紅革は、故郷を捨て平和な土地に逃げることにしました。
紅革はいつも身は裸で、足には履物を履いたことがありません。自分よりも母を大切にし、母を養うためひたすら働いていました。やがて世の中が平和になったので、再び故郷で暮らすことにしました。一生懸命働いた紅革には、車を引く牛や馬がいましたが、母が動物にびっくりするといけないと思い、母を乗せた車は自分で引いて行きました。母を気遣い仕事熱心な紅革は、やがて孝行の人として皇帝にも知られ、役人に任命されたといいます。

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仲由(ちゅうゆう)

山谷は宋の時代の詩人で、今日の詩人の祖師と言われるほどの人物です。山谷には妻もあり、使用人もたくさんいましたが、朝から夜まで一日中母に仕え、決して孝行を怠ることはありませんでした。
例えば、自分の母の大小便の便器の汚れを自ら確認し、汚れている場合は素手で洗いました。この便器の逸話一つを聞くだけでも、他にも孝行をつくしていたということを推測することができます。一時が万事とはよく言ったものです。こうした山谷の孝行は天下に知られ、山谷の名も広まったといいます。

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